姫を残していった場所に戻るまでにどれだけの時を要しただろう。 そこに、姫の姿はなかった。 扇が落ちていた。 血の気が引いた。 生きた心地がしなかった。 *――忘れているのですか? なんと残酷な言葉だ。 忘れることなどできようか。 確かに頑固で、ひねくれた悪童だった。 幾度、悪さをしたかもさだかではない。 折檻されても許しを請うこともない、涙も流さない、かわいげのない悪童だった。 だが――このときばかりは感情を押さえ切れなかった。 声を上げ、探し回った。 大人に頭を下げた。 山菜を採りに来ていたおばばの、近くを山犬がうろついているのを見た、という言葉に胸が張り裂けそうになった。 胃の腑の中のものをすべて吐き出した。 一刻ほどして、姫は、近くの沢でうずくまっているところを発見された。 https://william-l.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-f49e13.html https://jennifer92.livedoor.blog/archives/37270578.html https://www.myvipon.com/post/1328964/show-amazon-couponsちょっとした擦り傷を負って。 小太郎のことは口にしなかったという。 自分で邸を抜け出て沢を滑り落ちたのだと。 それを聞いて涙がこぼれた。 頬を伝う涙が止まらなかった。 幼い頃は幸せだった。 なんにでもなれると思っていた。 戦で手柄を立て、わが名を轟かせることができると信じていた。 どこまでも出世できると信じていた。 出世すれば、姫をれると思っていた。 賢く愛らしい姫の笑顔を、ずっと見ていたかった。 抱きしめたくなるような声に包まれていたかった。 忘れてなどいるものか。 竹の竿でしこたま打たれたのだ。半月ほど尻を下にして寝ることができなかった。 それを機に姫の側役――と義久は自負していた――をはずされたのだ。それがなくても、とうにはずされる歳にはなっていたのだろうが。 祖父、忠信の顔に、家名に、そして何より母の顔に泥を塗ることになった。 元服して、義久と名を改め、五月後には家を出た。 ――身分の違いは、とうにわかる歳だった。 夢見る頃は、とうに過ぎていた。 それでも、手柄を立てたかった。 名を轟かせたかった。 「さすがは義久」と、姫に口にして欲しかった。 その一言欲しさに家をでた。 そして行方をくらませた――それはすなわち、母と弟を捨てた、ということだ。 * 「馬は臆病だと聞きますが、大丈夫でしょうか」 姫の言葉で、われに返った。 何か言いたげに、義久を見上げている。 ようやく、合点がいった。 「お任せください。この義久、だてに悪童と呼ばれていたわけではありませんぞ。あのような『悪さ』にかけては、わたしの右に出るものはおらぬでしょう」 とっておきの笑顔で応えると、姫は嬉しそうに微笑んだ。 遅まきながら姫の意図に気がついた。 姫は、昔、義久が行ったことを、ここで再現できないかと話を振っていたのだ。 意見するのではなく、義久自ら口にさせようと。 姫を無事、隆家様のもとに届けることが出来れば、義久の武名は日本六十余州に轟きわたるだろう。 「名を変え、仇のもとに潜り込み、武芸と知恵で姫君を救いだした武士(もののふ)」として。 * 元服直前に、国府と温品の境を流れる川の漁業権をめぐって、それぞれの民が一発触発の事態に発展したことがあった。 雛遊びで使った言い訳が現実になったのだ。 生活に直結するこうした利権は命のやり取りとなることがある。 この時は、夜になってお互いが武器を持って川原で対峙したのだ。 当時、小太郎と呼ばれていた義久が中心になって、その対決を中止させたことがある。 捕まえた山犬五匹の尾に縄を結び、その先に松明を結び、火をつけて放ったのだ。 その場は大混乱となった。 その様子を見て義久たちは腹を抱えて笑った。 面白半分ではあったが死人も出ず首尾は上々と思われた。 だが、松明の火に怯えた山犬たちは人の騒ぎが収まっても走り回った。 川原はおろか山裾を走り回り、枯れ草に火をつけて回ったのである。 いがみ合っていた民も加わり、大事になる前に、どうにか消し止めることができた。 弓場横の杉の木に縛りつけられたのは、あの時だ。 * 馬が上流側の砦に向かうよう、門の外に移動式の柵を置いた。 関所だった頃に使っていた物だ。